東日本大震災フライト

 その時、自分は羽田に駐機しているB767型機のコクピットで出発準備を行いながらお客様の搭乗を進め、もうすぐ5分前コールを行おうという時でした。

突然に大きな揺れが始まり、シートに座っていても危険を感じるほどの大きさになってきました。
最初に心配だったのは搭乗して客席に座っているお客様です。シートベルトをしていないと怖いくらいの揺れです。最初に「落ち着いて下さい」という旨の機内アナウンスを行いつつ、状況把握を行う為、機種移行訓練中の副操縦士にAMラジオを受信させ、NHKラジオを聞きました。

おそろしい津波の情報が流れ、報じられている到達している高さが次第に高くなっているのを聞き、これはとんでもないことになったと感じました。
最初の揺れは収まりましたが、次々に揺れが続きます。
程なくして、飛行機の下で待機している整備士から、隣のB777の飛行機とボーディングブリッジが揺れながら接触して飛行機が凹みそうです、この飛行機もボーディングブリッジを飛行機から少し離したいです、との連絡がありました。

搭乗を一時停止し、今後どのようになるのかを想像しつつ、情報収集に努めたのですが、とても心配になる次のことが頭に浮かびました。
津波が、羽田空港に押し寄せたらどうしよう?海抜高度の低い羽田空港が津波に襲われたら、飛行機はどうなってしまうのだろう。
今になっては心配のしすぎでしたが、震源もわからず、そのうえ千葉県沿岸にも津波が押し寄せているとの情報があったためです。

カンパニー無線で色々やりとりをしていると、地震によって搭乗を控えたいと申し出るお客様がいることがわかりました。この場合は手荷物を取り下ろしたりややこしいことになるのですが、余震が続く中を作業が進められました。

何分たったかわかりません。余震が収まりつつあり、お客様の搭乗も続けて全員が搭乗し、ドアを閉められる状況になってきました。滑走路の点検も終わって通常の運用に戻っていることもわかっていましたが、ここでまた心配になってきました。
ATCを聞いていても他の飛行機は全く動いていません。果たして出発していいのか?
カンパニーにその旨問い合わせると、「大丈夫です」との答えが返ってきました。

羽田のグランドコントロールにランウエィ05への移動許可を得て移動しましたが、自分の飛行機以外はスポットにピタッと停止しています。日も落ちてあたりはすっかり暗くなりました。怖いくらい静かな羽田空港を進みます。ニュースで市原の精油所が火災を起こしている事を知り、移動中にちらっと見ようかなとも思いましたが、ぐっと堪えて担当便に全力を注ぐことにしました。

静まりかえった羽田空港をタクシングしているのは私達の飛行機だけです。
いつもの通り05からの離陸許可を受け、離陸しますが、V1を過ぎてVrで引き起こしを開始したときにはほっとしました。
「やっと地面を離れられる」

しかし離陸してウエザーレーダーを見るとSIDの経路上(約2000フィート)に気味の悪いくらい顕著なエコーが映っています。
今でも思うのですが、巨大地震やその余震が起こった後には気象現象にも影響を及ぼすのか、低高度の対流現象が活発になると感じます。
副操縦士の「避けましょうか」というアサーションを受けて、東京デパーチャーにヘディングをリクエストしました。
飛んでいるのは私達だけです。
すぐOKを頂き、回避しながら小松空港に向かいました。

飛び上がって思ったのは、地震におびえる心配が無く、水を得た魚のような気持ちになった事でした。
普段でしたら飛行時間が短くバタバタする羽田ー小松ですが、この時は本当に安堵しながら飛ぶ事が出来ました。

小松空港に着陸して、いつも通りに飛行機を降りてホテルに向かいました。
その途中でとても大変なことが起こったということを改めて知りました。
ホテルに入ったあと、夜の金沢の町に出てコンビニで食料品などを多めに買うことにしました。
こういうときは決まって物が不足するからです。
町を歩く人々は全く地震の恐れも無く、別世界でした。
当然ながらコンビニでは普通に品そろえがあり、かなり拍子抜けをしたことを覚えています。

翌日は朝からのフライトでしたが、ニュースをみるととんでもない事になっていることに呆然としました。
それと同時に昨日は結果的には羽田空港を一番に出発して100人以上のお客様を無事届けたことに安堵しました。
この日のフライトは、小松ー羽田ー千歳ー羽田です。

いくらか閑散としている羽田空港に降り、新千歳に向かいましたが沢山の救難信号が121.5MHz から聞こえてきます。
津波で流された小型機から自動的に発信される信号音です。
そして最後の新千歳から羽田に戻るフライトは一生忘れることがありません。

岩手県、宮城上空県上空を飛ぶと機長席から沿岸の景色が見えてきました。
言葉を失うとはまさにその事でしょう。いつも見ていた海岸が無いのです。海岸は大きく後退して代わりに海面が広がっているのです。

この時点では何も報道されていませんでしたが、見てすぐにわかりました。
沿岸地域は陥没して地形が変わってしまったのです。地震の影響に心底驚くと共にここで多くの方が亡くなってしまったことを考えると、痛ましい気持ちになりました。程なくCAさんから「機内アナウンスをお願いします」との連絡が来ましたが、とてもその気にはなれませんでした。

フライトを終え、那須町にある自宅に帰ろうとすると案の定交通機関が乱れています。北に向かう新幹線、在来線も運休もしくは時間が何倍もかかっています。
そこで裾野市にある妹夫妻の家に泊めてもらうことにしました。

翌日、ほぼ半日以上かけて自宅に帰ったのですが、家財は散乱し家の瓦はかなり落ちて悲惨な状況です。
翌日からたまたま休みが続いていたので、片付けをしつつ、割れた瓦をかたつけると同時に、近所から瓦をいただいて自力で屋根に登って瓦を葺くことにしました。

その後発覚したのが原発事故です。最初は情報が曖昧で、原発から遠く離れているとは言えない那須町で片付けの作業を行っていても毎日心配でした。実はメルトダウンや放射能のことは本を読んで知っていましたので、政府が報じる情報も正直言って半信半疑で毎日風向きを気にしながら復旧作業に当たっていました。
その後建屋が吹き飛んだという情報が入り、その晩真剣に考えました。小さい子供もいます。
そして翌日、ようやく復旧した新幹線の初便に乗って家族を妻の実家の鹿児島に避難させることにしました。

私はたまたま避難させた翌日からホノルルの仕事でしたので、羽田に一泊して成田ーホノルルのフライトを行いました。
フライトを終え、ホノルルに着くと、大騒ぎになっている日本とは全く異なる、のんびりしたハワイの世界が広がっていました。
その後ホテルについて部屋に行くためエレベーターに乗ると、外人に「日本は大変だったので。お気の毒です」と言われ、何とも言えない気持ちになりました。

帰国してしばらくは一人で作業をしながら原発の様子を伺い、落ち着いた頃に家族が帰ってきました。
その間、ガソリンがなかったり食料がなかったら色々大変でしたが、あの海岸線の気の毒さに比べると大したことはありません。

震災が起こって14年目にして、やっとこのように書くことができました。
この経験を文字にすることは全くできなかったのです。