機長の意思決定に関して、その3ではオンラインミーティングを例にして、最終的な意思決定に至る経緯を解説しました。
心境(信念)が情報によって次々に更新され、問題特定に至りました。
更新のプロセスはベイズ更新と呼ばれます。
さて、今回のその4では理解を深めるために現実のフライトを想定して、より具体的に考えてみたいと思います。
現実のフライトは様々な判断を行わなければなりません。
ここで揺れの情報への対応を考えてみましょう。
ACRASもしくはカンパニーで「降下中の先行便からTB1(軽度)の揺れがFL200(高度2万フィート)で報告された」というシンプルな情報が入りました。
この情報からシートベルトサインを
①早めに(例えばFL300で)点灯するようにプランするかそれとも
②通常のタイミング、つまり1万フィートで点灯するようにプランするかの決断に迫られます。
一つだけ確実に言えることは、上記の情報だけでシートベルトサインの点灯タイミングを決断することは多くないのが現状です。
では具体的に他の情報は何?という問いが湧き出てくると思いますが、エアラインで常にこの課題に直面している方ならばピンとくるでしょう。
具体的には
揺れに遭遇した場所、時刻、機種を確認する
揺れの原因(ウェークタービュランスかもしれません)を確認する
当日の気象条件を考える
※機種を確認するのは、大きい航空機ほど揺れが少ないという現象があるのがその理由です。
等が挙げられます。(他にもサービスの内容、お客さんの数、クルー編成なども総合的に勘案して最終決定に至ると思いますが、この点は省略します)
筆者も先輩機長からよくアドバイスを受けました。
「情報は鵜呑みにせず、必ず自分の解釈、判断を加えて決定するように」
この言葉は、適切な情報を自ら取得して、それによってベイズ更新を行って最終決定を行うようにという概念にほかならないと考えます。
しかしコクピットでのワークロードは通常の仕事に比較してかなり高いのが常です。また、コクピットではインターネットに接続した情報端末を使うことが出来ない為、情報の収集にも限度があり、半分手探りの状況です。
極めて少ない情報から困難な決断を迫られる、これが機長の仕事です。
実際に筆者の経験として、上記のようなTB1@FL200の情報から早めにFL300位でアナウンスをしてシートベルトサインを点灯して全く揺れなかった経験も多くあります。
逆にシートベルトサインを点灯せずに降下して実際にFL200で予想より大きな揺れに遭遇してひやっとした経験もあります。
常に安全サイドで対応すれば良いのではという意見もありますが、そのように考えますとTB1がずっと続く気象条件ではシートベルトサインを消灯させることが出来ないために、飛行中お客様がトイレに入ることも出来ません。
常に安全サイドと考えて決断をすると欠航しなければなりません。
現実の判断は大変難しいものです。
ある程度のリスクを許容しつつ可能な限り安全を追求する。
機長としての決断は大変難しいものです。
さて、機長昇格訓練中の訓練生にとってこの揺れへの対応は大変難しいものです。
特に訓練中に一人で決断する能力も示さねばならない時があります。
現代のコクピットクルー像は、機長と副操縦士がお互いのリソースを有効に活用して最適な結論を導き出し、実行し、振り返しつつ修正するというものが理想的ですが、副操縦士の体調が悪かったりしたときにはワンマン機長の行動が求められるからです。
一人で決断する能力も示さねばならない時に、とても判断に苦しむケース(パイロット判断が2分されるようなケース)が発生すると機長訓練生はとても悩みます。
このような時に教官に相談できないからです。
仮に機長訓練生の心境が下のグラフのように、それほど大きく揺れる要素はないから1万feetで点灯しようという結論(青)が、3万feetより(オレンジ)より若干強かったとします。
しかし、この時とても気になるのは隣に座っている機長(教官)の判断です。教官はどう思っているのかなぁ?と気になって仕方がありません。
仮に機長の判断が下記のようになったとします。
訓練生の中には何気ない日常会話から機長の心境を探り出して、自らの決断を修正できる世渡り上手な方がいるかもしれませんが、ここではそれを除外して考えます。
この時、機長の顔色をうかがって(機長の判断を推測して)自身の決断を変える事は出来るだけ避けるべきでしょう。
これがマンネリ化すると自らで考える事を放棄してしまい、他人に迎合する事を得意にする、日和見機長になってしまうからです。
(繰り返しますがこの話の前提としてはCRM:クルーリソースマネージメントの実践を封印しなければならない状態です。
CRMでは他人の意見をきちんと聞いて咀嚼して取り入れる、これは当然のことです。)
教官は、こういうシチュエーションの時に多くの機長は判断が分かれるだろうということは承知していると考えます。
グラフにすると下記のようになります。
このように判断が分かれるとき、教官が最も興味があることは「訓練生はどういうプロセス:ベイズ更新 を経て結論に至ったのか」という点であると思います。
自らが導いた結論が完全に不安全にならない限り、教官と同じ結論である必要はありません。それよりもプロセスが健全であればいいのです。
(完全に不安全になる場合は、最終責任者である教官は自分の判断を全面に出すことでしょう)
次回は確率密度分布のグラフについてお話ししましょう。
実はこれまでのお話しは分かり易くするために、かなり一般的なグラフを使用しました。
次回はより現実的なグラフによって、実例に則した(離陸中断:RTOを取り上げます)解説を行うことにしましょう。